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仮想現実・人間・演劇 4
          劇団イルリップ公演「ガーゼ」感想 4
 (188行ー13049)                    塚原勝美
              
              仮想現実と人間の感受装置であるこころの
              空間とはどう関係しているんだろう?
              いったい心とは何か?
              男の感受装置には情報を挿入され、それを
              受け入れる子宮構造が存在し、女の感受装置
              にはきんたま構造が存在している。
              女の演劇とはこうして都市のむきだしの暴力
              を舞台に現出させる。
              「シミュレーションして遊びましょ!」
              男の背筋に恐怖の戦慄がはしる。
              そこに世界同時基調色が立ち上がる。
              女の動物的本能は宇宙と世界の磁場と
              連結・連動しているのだ。
              世界の男どもの精子を仮想現実へと
              落下させるUSAマドンナの欲望は
              ある復讐によって男のエロスを解体する
              女とは悪意を隠すメディアでもあるのだ
              女の存在とは何か?
              男は永遠に発見できないかもしれない
              女の演劇は現在の都市を回収する
              能動的なきんたまとして武装している

 USA社会は移民によって形成された多民族複合国家である。かくして産業経済を成
立させ、工場の生産形態を維持するには自動機械の機器を操作するための、テキストと
してのマニュアルがどうしても必要とされる。ところが多民族など存在していないと他
者を「外国人」というフレームで隠しとうす日本のマニュアル社会はテキストとして構
造化されていない。「単一民族」の欲望を統制し画一化し制度化するマニュアル社会な
のである。かくして物語はサブ・テキストの情報洪水となる。園子の現在はこうした社
会によって外傷を受けたロスト・アイデンティテイーとしての自己喪失の構造に存在し
ていたのである。だがそれは自分さがしの演劇ではない。没落する同時代の青春群像の
内部を閉ざし徹底化することにより自壊させる演劇であったのだ。それは柄谷行人が外
部・他者を発見するためにとった戦略でもあった。

 イルリップ「ガーゼ」の青春群像より私は20年以上の時間を経験し、今や禿げ頭の
おじさんである。あるいはすけべじじいと呼ばれる存在だ。しかし自分たちの殺された
青春群像を新ためて思考せずにはいられなかった。1970年から1992年というこ
の23年間の日本のサブ・テキストの時間・空間とは何であったのだろうか? 高校の
反乱をテキストの人間存在表出として行動し敗北した私たちの同時代世代は、いまも日
本社会の自己欺瞞・他者欺瞞のサブ・テキスト構造を徹底的に憎悪している。呪詛の言
葉こそ私たちの共通項だ。私の感情は17歳でストップしたままだ。とにかく憎悪の遺
伝子が身体細胞にインプットされてしまっている。

 この遺伝子はときたま禿げ頭・白髪頭を突きやぶり火柱をあげてしまう。永遠に私は
安定した生活など送れないであろう。死ねまで感情は不均衡のままで、17歳の遺伝子
は禿げ頭から火柱をあげ続けるのだ。それでいいのだと思う。現在、私の世代はいよい
よ40男としてマス・メディアの事件ニュースに破綻した男として三面記事化される機
会が多くなっている。私はいよいよ17歳の遺伝子が表層皮膚を突きやぶりエイリアン
のごとく、「日本人類」の市民社会に襲いかかっているなあ、とひとりマスターベーシ
ョンしながら妄想にふけっている。遺伝子の沈黙は長ければ長いほど、ある日突然、憎
悪すべき対象であるサブ・テキストの感情に襲いかかるのだ。

 私たちの17歳の遺伝子は、自閉・絶望・孤立・解体・破綻・疎外を栄養として誕生
したがゆえに、自己が追い込まれれば追い込まれるほどこの遺伝子は動物的本能の生命
維持装置として作動を開始する。17歳の遺伝子の執念は私の身体を子宮器官として成
長してきたのだ。私は自分がいまだ何者であるかわからない。おそらく私の身体と細胞
はある遺伝子の子宮器官であることは間違いない。男は子宮器官を持たぬ動物であるが
、おそらく自己の全身体が世界の精子を受け入れる子宮構造であるのだ。これまで男は
それまでのテキストを模倣し受け入れながら全身体の子宮構造で実践的に検証し、己の
テキストを表出しながら歴史的空間を生き延びてきた。テキストの激突・対決といった
欲望を欠落させ、すべてを隠蔽する衛生管理社会は男の没落を促進させる。

 こうして男の子宮構造が消滅すれば、女の子宮器官も変貌する。女の身体はテキスト
を発射する攻撃的な金玉構造を持った全身体へと武装を開始するのである。私の妄想は
新世代の女がテキスト存在として誕生していることに畏怖している。少女たちの欲望は
現代演劇をテキストとして受入れ回路をもった。惑星の引力リズムを動的中心に持つ女
の動物的本能は、やはり生きた仮想現実を愛したいのである。

 こうして仮想現実をめぐる階級闘争は90年代世界にダイナミックに、表層皮膚と深
部において進展していくであろう。一方が没落する少年たちが遊ぶコンピューター・グ
ラフィックによる死んだ仮想現実のゲーム。これは死滅しつつあるコミック雑誌まんが
・アニメーションの延長にある、近代産業の動的中心である四角のフレームに囲まれた
平面知覚の構造にある。テレビ映像の世界だ。底に動物的本能の遺伝子が火柱をあげる
対話能力は無い。ツルツル・ピカピカの衛生管理都市の世界なのである。他方としての
麻薬的な生きた仮想現実としての現代演劇がある。この仮想現実は平面知覚とは対極に
存在する。徹底して空間知覚と擬似体験を覚醒させる呑め理込めば廃人になってしまう
幻想に電波を飛ばし、それを受信するといった非日常の世界である。クスリなしのドラ
ック体験、その生きた仮想現実こそ演劇の空間時間交換である。

 さらにコンピューター仮想現実においては機器とテクノクラートがあらかじめ編集し
たソフト回路がメディアであるが、演劇仮想現実においては歴史的空間に誕生した奇人
・変人の人間と呼ばれる役者がメディアである。役者は常に電波を飛ばし観客と都市の
動的中心を挑発する仮想現実を表出するメディアである。さらに劇詩人の悪意はコンピ
ューター仮想現実を相対化させイメージをねじ曲げてしまうといった挑発性に満ちてい
る。永遠に少女・少年である劇詩人は、コンピューター・ウィルスを電話回線でシステ
ム動的中心に挿入させ、システム構造を破壊してしまうコンピューター犯罪少年のゲー
ム動物的本能に存在している。生きた仮想現実をテキスト化する劇詩人とは空間交換と
時間の詐欺師のことに他ならない。こうした詐欺師たる劇詩人はコンピューター仮想現
実のように今日明日誕生したのではない。その遺伝子は一万年も継承されてきたのであ
る。どちらに歴史的生命力があるかは、この仮想現実をめぐる今後の階級闘争によって
実証されるであろう。この創造力の階級闘争は人間の時間交換・空間交換・場所交換を
めぐる闘争である。コンピューター仮想現実の衛生管理テクノクラートは、人間が人間
に向けて電波を発信し人間がその電波を受信し協働的世界を想像するという、人間のテ
キスト存在を甘く見ないほうがよい。コンピューター仮想現実は人間とはなにかを解釈
するサブ・テキストに過ぎないのだ。やはりわれわれは恋人をめぐる闘争として「はっ
きりしろ」と園子に迫る真奈のように、自己を傷つけ友達を傷つけたとしても生きた人
間を愛することによってアトミズムの外部へと出られるのである。

 そこで私は「経済学・哲学手稿」のマルクスの言葉を思い出す。「人間を人間として
、また世界に対する人間の関係を人間的な関係として前提としたまえ、そうすれば君は
愛をただ愛とだけ、信頼をただ信頼とだけ、等々というように交換することができる」
「もし君が他の人間たちのうえに影響を及ぼそうと思うなら、君は他の人間たちのうえ
にほんとうに刺激的促進的にはたらきかけるような人間であらねばならない。君の、人
間にたいするーそして自然にたいするー関係は、いずれも、君の現実的な個性的な生の
或る特定な、君の意思の対象に照応するような表出であらねばならない」「もし君が愛
して、返しの愛を呼び起こさないとすれば、すなわち、もし君の愛することが愛するこ
ととして返しの愛を生み出さないとすれば、もし君が、愛しつつある人間としての君の
生の表出によって君自信を、愛されたる人間にするのでないとすれば、君の愛は無力で
あり、一つの不幸である」(訳藤野渉) 私はこのロマンチズムにあふれたマルクスの
言葉が好きだ。

 要するに仮想現実をめぐる階級闘争の構造とはつぎのような結語となる。人間は一人
一人違う。固有の空間を持つ。それが「こころ」と言われる内実だ。この「こころ」は
他者の固有の空間である「こころ」と連結・連動している。ゆえに人間は永遠に傷つい
ていくだろう。しかしその傷がアトミズム構造へと回収されたとき、人間の「こころ」
は近代的自我である四角の密室の空間となる。こうして死んだ仮想現実は或る場所へと
ひたすら逃亡する。われわれが日常的に使用交換する紙幣のフレームをまじまじと見れ
ば四角の構造にある。それは直線によって自己完結した人工的な形である。自然源態に
は存在しない形である。人間はこうした形に見せられ従属してしまう。

 だが人間の身体は四角ではない。極めて複雑な空間構造を持っている。その空間とは
常に流動化している。一定の形に留まっているのは彫刻である。そして人間の頭脳とは
シミュレーション空間に存在する。これが想像力と言われる内容だ。その空間は常に疾
走している。生きた仮想現実はこうした人間の空間時間交換知覚、そのものの源態構造
を飛躍させる。つまりシミュレーション身体空間における未来と古代の格闘エネルギー
を、現在の人間の潜在空間にぶちこみ関係性としての人間を復活させるのである。とこ
ろが死んだ仮想現実はどこまでも平面の構築物でしかない。いかにそれが立体に見えよ
うともアニメーションの自動化に過ぎない。それはどこまでも人間の空間知覚たる動物
的本能を壊滅するサブ・テキストの構造なのである。

 世界史・人間史の格闘と対話する能力を欠落させたサブ・テキストは永遠に現在の空
間を隠蔽する。故に日本のコンピューター技術は、ある臨界点を構造化しただけに過ぎ
ぬ。その平面の構築物は明確に機器のバブルとして破裂したのだ。オペレーションの欲
望源態が、自己欺瞞・他者欺瞞の社会源態に制度化され規定されているかぎり、次ぎな
る市場構造は形成出来ない。やはり半導体・コンピューター機器の内部にスターリン弁
証法的唯物論など存在はしていない。主体はオペレーションする側、人間の表出その欲
望源態に存在しているのである。こうしてコンピューター機器は人間の生きた仮想現実
をめぐる階級闘争の道具となる。

 これまで資本主義リアリズムは予測というシミュレーション構造を特権化し私的所有
してきたが、シミュレーションの動的中心は生きた仮想現実を表出させる階級闘争に移
動している。資本主義リアリズムはマルクス的人間の動物的本能その欲望を甘く見ない
ほうがよい。スターリン社会主義リアリズムが敗退したように、資本主義リアリズムは
その欲望源態が飛躍すること無く敗退していくであろう。

 草原と騎馬民族の遺伝子を持ったものは、日本列島壊滅後、世界に拡散する準備をす
る必要がある。他者の国でも生き抜くことが出来るよう、心的エネルギーを蓄積し身体
を鍛えておく必要がある。われわれは世界史の動的中心の移動を甘く見ないほうがよい
。自己欺瞞・他者欺瞞のサブ・テキストの国家は必ず消滅してきたのだから。本物のパ
ワーを執念に表出するテキストのみが生き残ってきたのである。サブ・テキストの「古
事記」「日本史」などは日本という国家が消滅してしまえば、サブ・テキストとしても
生き残ることは出来ないばかりでなく、その前に地底から本物のテキストが表出してく
るだろう。

 劇団イルリップへの私の欲望はぜひとも今後、現代日本の青春群像の階層分裂をテキ
ストとして舞台化してもらいたいことである。映画「トパーズ」は村上龍監督による作
品であるが、SMゲーム人材派遣会社で働く女がトイレで、バブル成金の女たちから笑
われるシーンがあった。階層分裂の構造がどう現在の青春群像の内部において進行して
いるのか?一体現在の青春群像は己の人生を規定する階層というものをどう受け止めて
いるのだろうか?一晩限りのセックスをして女を捨てる自動車産業文化のナンパ構造に
対して、武装せる少女たちが立ち向かっている光景を思考しても階層をめぐる闘争がこ
の日本から消却したとは思えない。むしろバブル経済崩壊の後、気分という霧は吹き飛
び、もてるものの家庭と持たざるものの家庭は明確に確定されてきているのである。娘
たちは男以上にその家庭の財産と身分の構造に規定されてしまう。

 日本の女から始めて階層空間をめぐるテキストとして教えてもらったのは宮本百合子
の小説であり、労働運動・社会運動・底辺のボランティア実践的現場で格闘していた女
たちの言葉からであった。80年代の格闘構造はこの神奈川においても、それ迄の世代
の陷落を突破した女性主体が誕生している。こうした女性主体は或る空間構造のテキス
ト存在の激突をくぐり抜けて今日を形成しているのである。テキスト存在と動的中心を
内包した徹底した激突の主体形成、これが80年代の格闘の構造であったのだ。その空
間は決して消費管理社会では見えない構造であったのだ。

 こうして日本の女の表出欲望は、それがマス・メディア言語によって洗脳された平面
知覚であるか、それとも独自的な空間知覚であるかに分裂をしたことは確かだ。洗脳さ
れた平面知覚はいまもなお、没落する男たちの優しい制度的エロスに規定され女を演じ
続けている。こうした女は世界の現在、最もパワーが欠落した遅れた女たちであろう。
日本の圧倒的多数の女は、「石井細菌戦・人造実験収容所」のマルタ的存在へとテキス
ト化されていくであろう。都市の午前10時から午後3時にかけて、交通機関に群れ的
に乗っている女たちや、デパート・パチンコ・レストランで金を消費する女たちを欲見
ればよい。彼女たちは空間存在の淋しさに粉砕され、その顔は土色になっている。マル
タの顔だ。どこにも転がっていた戦国時代の死者たちの顔だ。精神が死んでいるのだ。
もはやハッとする生命力を喚起する女はこの都市の真昼空間・表層皮膚から追放され消
却されてしまったのかもしれない。

   しかしながら空間知覚をもった女は創造力の武装として、芸術空間に
   表出してきた。日本においては紫式部の時代以来、女の表現者はつねに
   空間と人間をある感情のこころとして表出してきた。紫式部がユーラシア
   大陸の言語である漢文とは無縁であったと思いこんではならない。
   紫式部はその時代の漢文に精通し先端に存在していたのだ。
   ゆえに体系としての物語装置を表出したのである。
   80年代とは空間知覚をもった女にとって
   戦略的準備の蓄積・主体形成としてあった。
   今、仮想現実をめぐる最先端の攻防に
   きんたまをぶらさげた女が登場してきたのだ。

                        1992,12,05


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