
仮想現実・人間・演劇 2
劇団イルリップ公演「ガーゼ」感想 2
(298行ー21151) 塚原勝美
演劇は舞台空間を役者のエネルギーその衝突
によって、第5の層たる始源としての意識下
の意識を立ち上がらせる。それこそが半導体
遺伝子による仮想現実の平面知覚を存在とし
てぶち破ることができる、人間にとしてのメ
ディアなのである。演劇とは生命力を伝動す
る仮想現実の空間と時間に生成するための、
反復的訓練と一回性にかける、奇人・変人・
詐欺師たちによって表出される。かくして半
導体遺伝子による仮想現実はこうした演劇の
詐欺師たちによって偽造されてしまう。
「事実は死んだ!アッハハハハ」
寺山修司・万有引力・レミング
「シミュレーションして遊びましょ!」
遠見裕子・イルリップ・ガーゼ
スペース・ゼロの建築設計構造は、もはや人間の闘争歴史を消却し、帝都・東京の前
に屈服し区画整理に画一化された町、私が育った栃木県Y市の市立体育館であった。そ
の市立体育館は多目的ホールでもあった。ここ数年は渡辺美智雄大先生の市役所をマシ
ンとした後援会の会場に利用されているらしい。駅前の軽食喫茶店では、奥様方が「海
外旅行に行ってきたんでございますの」と自慢話しに花を咲かせているらしい。スペー
ス・ゼロにはこうした成金のよそよそしさがある。客席をできるだけ多くするために、
正面舞台を白い四角のフレームで囲いこんでのである。おそらく愛国的労働組合の大会
や愛国全労済大会の活用のために設計されたのであろう。私は万有引力の役者たちが痛
々しくなった。何故か、からまありしているのである。それは意識かの意識という演劇
の第五の層が、スペース・ゼロの成金構造によって閉ざされていたからである。故に過
去と未来と現在の語りべたちの幻想が「レミング」の空間になだれ込むことは無かった
。
空間になだれ込んできたのは、この真新しい全労済ビルを建設する工事現場であった
のだ。その二日後、私はイルリップ「ガーゼ」を体験するため横浜・相鉄本多劇場の
観客席に座り、ああやはり小劇場は開放感があると快楽を感じながら劇の登場を待っ
ていた。
演劇の第五の層とは<意識下の意識>として生成し、役者と役者の対決・衝突これら
生命力としてのエロティシズム・エネルギーによって空間と時間が振動し、それはある
裂けめを切り開く。その裂け目から過去・未来・現在という時間はブラック・ホールに
吸いこまれるようになだれ込み、ある特異点としての空間を現出させる。それが演劇の
幻想性である。この幻想性に実は過去・未来・現在と言った時間の束が一体的に出現し
ている。それは思源としてある根源的な物質と動物的本能の空間の奪還としてある。演
劇の幻想空間は、かつて現出した出来事、そして今だ現出していない出来事を、この第
五の層によって表出するのではないかと思われる。万有引力「レミング」が動物的本能
としての遺伝子を覚醒させたのは、新宿駅南口から渋谷方面に歩きスペース・ゼロに来
た人間としての観客ではない。地下・下水道にうごめくネズミと蛇たちの遺伝子を覚醒
させたのである。この空間からカミュ「ペスト」への想像力はそう遠くない。やはり壁
の消滅は大地震による東京壊滅を待つほかは無い。その前にネズミたちは群れとして帝
都の街頭に出現し安全地帯へと動的中心の移動を開始するだろう。
演劇の暴力とは何か?これを私はイルリップ「ガーゼ」と万有引力「レミング」の連
関構造の連結・連動に発見した。万有引力「レミング」を記憶構造に出力させたのは、
イルリップ「ガーゼ」を言語化するためであった。ある劇団の演劇はあの劇団の演劇と
、現在の空間時間において連結・連動している。詩人とは動物的本能と遺伝子による感
受能力を全面的に発動させ、いかに誰よりも早く見えない生成を発見するかの競争構造
に存在しているのだが。<見えない生成>とはやがて現出するであろう出来事が現在に
おいて誕生している出来事の生命体のことに他ならない。詩人とは詩を書くから詩人な
のではない。観察と実験の知覚・臭覚・聴覚・触覚の動物的本能を研ぎ澄ましているか
ら詩人なのである。思源的な詩人は常に実践的構造の内部に存在している。こうして根
源的な詩人は演劇をめざす。劇詩人は一般の制度的な物語を認めない。彼・彼女の動物
的本能は固有の物語の激突である人間の交差点に存在しているからである。
もはや大衆などと言う概念は70年代に死滅しているのだが、マス・メディアは一般
人という幽霊光景を相手にせざる得ない。大衆・一般人という言葉はマス・メディア構
成員が己の商品価値を自己正当化するための言語でしかない。今や大衆・一般という実
態は墓に埋められ、部族的な分衆と固有の物語が都市構造を生成させているのである。
イルリップ「ガーゼ」はその分衆に分割された人間と固有の物語さえも今や消却されつ
つあるのではないかと問う、深刻な現在の構造をわれわれに投企したのであった。
如月小春とNOIESの「夜の学校」は、少年の動的中心によって消却された都市と
記憶の物語であり、万有引力「レミング」はネズミとウサギによってアパートの壁が消
却し、そこに他者の幻想と凶器が都市住民の四角の心に侵犯し、自分が自分であるとす
る事実の自信は消却されていく物語であった。ここには明確に現代演劇人の都市消却の
欲望が胎動している。1992年の参議院選挙は棄権票が「単一民族」の半数に到達し
ている。極論的に言えば、政治部族によって組織された人間しか投票所にいかなかった
のである。今や「単一民族」の半分の人口が日本の都市など消却され壊滅しても構わな
いという欲望を胎動させているのだ。場所を支えているのは辛うじて人間の求心力のエ
ネルギーである。その人間の心が場所に絶望し、心が場所を離れひたすら遠心力の心的
エネルギーの欲望が圧倒するとき、場所を支えるバランスは崩れ場所は一挙に崩壊する
。
「夜の学校」と「レミング」は場所の消滅をめぐる演劇であったが、「ガーゼ」はさ
らに現在の人間を鋭く観察している。現在の都市構造が裸力の暴力として「ガーゼ」
の演劇空間には現出していたのだ。われわれ観客の現在の光景が劇交換と時間に存在
していたのである。不動産企業の場が物語モンタージュとして進行していたとき私は
三日前の光景を記憶装置に出力していた。
このアパートを管理しているN宅建に家賃を払いに行ったときのことだ。いつもの机
に座っている連中が今日は妙にギスギスしているのだ。それにいつも私が家賃をその
手に渡すやさしい憧れの福田さんがいない。去年の夏、福田さんは私が家賃を多く払
っていたことに気付いて、後から追い掛けてきて呼び止めてくれた。大船駅東口で私
は頭をかきながら「いつも頭がボーッとしてるもんで」と福田さんに礼をのべた。や
はり若い女性は美しい。その福田さんがいつも座っているイスと机には私と同年配の
女性が座っている。おそらく管理職なのであろう。「いつもここにいる福田さんはど
うしたんですか?」と聞くと彼女の部下らしい女が「いつもここにいるのはこの人で
すよ」と言う。その言い方が何故か不動産企業の防衛戦争に準備しているかのごとく
おかしくもをトゲトゲしいのである。
私が淋しくうなだれながら家賃を払い、領収書を待っていると、電話が鳴りその電話
から指示を受診した女が事務所全体に宣言した。「今、社長からで、今日、仕事が終了
してから会議を開くって!」事務所全体は緊張し深くうなずく。私は家賃の領収書を受
け取るとバックにしまい事業所のドアを開け階段を降りたがいつもの元気がよい「あり
がとうございました」の挨拶は無い。私はニヤニヤしながら理念無き不動産経済の防衛
戦争は壊滅する日が来るだろうと確信した。「ざまあみやがれ」と思いながらも福田さ
んがここから消却されてしまった、とてつもなく淋しい感情には決着つけなくてはなら
ない。結局この淋しい感情をひきずらないために、己の日常的記憶装置から福田さん自
身を消却しなければならないのである。その変換こそわれわれの日常的消却訓練なのだ
から。ある日突然やさしい心を感じさせる人は場所から消えてしまうのだ。
残された光景はときめきの無いガサツな荒廃した夢の残骸としての場所なのである。
こうして場所は経済の裸力の暴力によって占領されていく。人間の人格はこの落差に分
裂し、十人十色ではなく、一人十色として生成し、二重人格ではなく、四重・六重・八
重の人格複合構造の存在こそが現在の人間である。もはや私は自分自身に人格など存在
していないし、自分が何物であるのかもわからない。ただ遊びの欲望だけが存在してい
るのである。その遊びとはシミューレーションである。すでに女へのエロスは「テレホ
ン・クラブ」やQ2サービスの電話回線から聞こえるメディアによって解体され、ポル
ノ・ビデオによって規格・基準化されてしまっている。人間的な内容をすべて喪失した
日常こそ私の日本文化である。
イルリップ「ガーゼ」はこうしたわれわれの現在の光景と都市の暴力構造を舞台空間
に現出させたのである。現在の暴力演劇とは荒々しい戦場的な舞台装置に出現するので
はない。極めて洗練された美しくシンプルなデザインとコスチュームによって表出でき
ることを私はイルリップ「ガーゼ」から教えられた。暴力演劇とは、いかにわれわれを
無意識のまま深層・潜在意識下において日常的に傷つけ記憶構造を解体させている都市
の表層変貌たる光景暴力を、物語構造において経験させるかである。仏教によれば人間
が一番恐怖心を持つのは具体的な人間に対してである。演劇が役者である人間としての
メディアを媒介に現在の都市の表層空間の皮膚をひっぱがしたとき、それはおのづから
暴力演劇と呼ばれるのだ。イルリップ「ガーゼ」は観客の肌を鳥肌へと震憾させ、続い
て背筋に危険信号を走らせる冷凍庫の暴力演劇だったのである。物語の黒子装置はわれ
われ観客の現在の具体的経験であったのだ。日本一を争う東京・横浜の高層ビルは傷口
をばっくりと開け、ガーゼを必要としている、しかし自然の母はもう存在しない。
例えば私は73歳の老母と生活しているのであるが、この老母にももはや統一的な人
格は無い。母は典型的な躁鬱病者であるのだ。そう状態とうつ状態はある期間を置いて
変換する。そう状態のときは元気があり食欲もあり働きにも出る。そう状態のときに西
友デパートなどいくと大変である。ローンの借金地獄がすぐそこに待っている。うつ状
態に入るとテレビばかり見ている。とにかく自分自身を怜悧に見据えると言う思考を拒
否しているのだ。「考えるとろくなことは考えないから嫌なんだよ」「テレビを見てい
るしか無いんだよ」それはまるでテレビの奴隷の姿だ。この老母との衝突・怒鳴りあい
を通して生活してきたが、いよいよ私は母が何者であるか判断停止・理解不能に陥って
いる。ただこの母の構造には敗戦から高度経済成長の日本史の裸力の暴力の傷口が見え
て来る。
侵略戦争と国家総動員体制はアジアの民衆生活を破壊したと同時に日本列島の民衆生
活も破壊したのである。非常識な体制においては常識は形成されない。母の世代はそれ
までの民衆生活の常識を継承されていない。ある家庭においては米をといて炊くことを
しらず、米をそのまま炊いていたと言う笑えない話しがある。
日本の現代史とは常にマス・メディアによって洗脳されてきた歴史でもあった。まず
言葉が洗脳され、つぎには敗戦記念日である8月15日、昭和天皇のラジオ放送によっ
て耳の洗脳が始まった。日本列島の人間をすべてラジオの前に集め耳を制度化し洗脳し
たことは「単一民族」の完成であり、マス・メディアが上座に治まったことである。テ
レビが家庭の中心に存在する位置構造は、1945年8月15日にすでに準備されてい
たのである。日本の母の構造とはマス・メディアによって洗脳された奴隷の傷口に他な
らない。こうした母の構造をイルリップ「ガーゼ」は自己同一性の解体として創造的破
壊をしたのであろう。
人間の青春は孤独を極限化したとき、対話すべきもう一人の自己を分身として誕生さ
せる。その代表的な文学がエミリー・ブロンテの「嵐が丘」である。私は「ガーゼ」の
物語構造の内部で過去の女の語りべの幻想が、劇空間の裂け目から顔をだしている妄想
を知覚装置に電気信号として走らせていた。私の妄想が園子と継子に注目したのは当然
である。継子は園子の自己対話が誕生させた黒い少年であった。園子の素心は都市のむ
き出しの暴力の前で傷つき、恐れべき人間関係の交差点である表層空間の暴力の前で立
ちつくし自己破綻した人間であった。ふたみは彼女の復讐と悪意によって都市に呼びこ
まれた人間であったのである。園子を演じた飯塚優世は素心まるだしで「私」という近
代的自我がすっぽ抜けている雰囲気を持っている。こうした「気」をかもしだす女に私
は興味がある。「私」が抜けている感じがする女こそ実は自己葛藤が激しいのである。
継子を演じた柳沢三千代は現代の仮想現実としての暴力構造を物腰も軽やかに表出し
たのではないかと妄想する。黒い少年継子のトーン色は黒であったが、黒には多様な色
が隠されている。継子は青緑の映像であったのだ。青緑の映像こそ90年代のわれわれ
の潜在意識を支配するトーン色である。1991年1月17日、USA軍によるバクダ
ット空爆の映像は夜を透視したデジタル映像であった。何十億の人口をテレビの前に釘
ずけにしたこの青緑のトーン色こそ90年代の基調色なのである。マス・メディアに屈
服した美術批評はすでに次ぎのような奴隷の言葉を吐いている。「今日、テクノロジー
の発展には圧倒的なものがある。それに比して思想やアートといったものは、こじんま
りとしている。湾岸戦争で『クリスマス・ツリーのよう』と形容された空爆の光ひとつ
とってみても、それにまさる美をうみだしたアートなどはない。今やテクノロジーに影
で、思想やアートは無力だ。仮想現実感もしくは人口現実感と呼ばれる技術の登場は、
この傾向を加速さらにした」こうして洗脳社会と欠落現実感の世界新秩序の基調色は青
緑のクリスマス・ツリーとしてデズニーランド化されていく。つまり90年代とは継子
によって自己同一化されていくのだ。継子は20世紀最期の救世主なのである。
継子がふたみに「シミュレーションして遊びましょう」と声をかけたとき、私は恐怖
に震え上がった。背筋に寒いあの青緑の電気信号が走ったのである。継子は園子の孤独
が呼び寄せた夜の亡霊だったのである。その意味で柳沢三千代の演技は始めにから結語
まで論理構造の円環を形成している。それは物語構造に体系の骨格が存在していたとい
うことだある。われわれ観客は「ガーゼ」の空間と時間に日本の伝統演劇である亡霊の
物語「能」を見ていたのだ。黒い夜の青緑色のエロス、それは人類が爬虫類としてジャ
ングルの沼に生息し、やがて哺乳類として樹木の上で生息していた始源的な森林の遺伝
子にある。イルリップの演劇は観客の動物的本能としてある記憶装置の身体が回路とし
てもつ人間のシミューレーション装置を呼出し、その場所に衣拠する演劇なのである。
いま私は15年前のテレビドラマを記憶装置に呼び出した。それは三田佳子が主演し
た精神病理のサスペンス心理劇であった。三田佳子が演じる主婦には二人の女が存在し
ていた。昼は造成住宅街ならどこにでもをいる静かでかわいい若妻である。ところが夜
になると行動的になり人格は変換されまったく別な女へと変貌する。女は都心にとびだ
していく。このような若妻は今日めずらしい存在ではない。おそらく昼においても夫に
見せる顔とは違う、別人として欲望をむさぼっている若妻は圧倒的に存在しているだろ
う。ところが当時は一人の若妻が人格もろとも分裂し、もう一人の別の名前を持った女
が現出することは衝撃的だったのである。やがて三田佳子が演じるその自己破綻した若
妻は精神科の医師によって、彼女の「こころ」とゆう空間の奥底に沈められ、幼少のこ
ろに受けた外傷から原光景としてのイメージが呼び出される。それは青緑色の渦が巻く
「沼」だったのである。
70年代80年代日本の都市計画と区画整理はこうした不気味な「沼」をひたすら埋
めて整地してきた。不気味な「沼」が消滅した変わりに人間の人格はアメーバーの原生
動物的に細胞分裂している。イルリップ「ガーゼ」は自分さがしの演劇と言ったマス・
メディア洗脳言語で集約することはできない。黒い夜を透視する継子は現在の世界同時
的基調であるシミュレーションの暴力構造をあばいたのだ。夜間を透視するハイ・テク
ノロジーの機器に写しだされる映像は、不気味な青緑色が渦巻く「沼」であった。人間
のハイ・テクノロジー機器の進化と人間のアトミズムの深化の交差点に点滅するのは青
緑色の信号機である。
「わたろう、わたろう、青になったらわたろう」こうした歌を私は小学校のときに洗
脳された。交差点においては青緑の信号が点滅してからわたることを身体言語として訓
練されてきた。赤色は危険信号であり、交差点では死を呼び込む色である。「赤」の国
家として侮蔑され、世界地図は赤で塗られていた東欧・ソ連邦社会主義国家は消滅した
。こうして安心・安全の色であった青緑色は世界基調色と生成した。しかし何故か不気
味であり、安心・安全というよりは破壊と荒廃の匂いが漂っているのだ。映画「羊たち
の沈黙」は見事にこの90年代の基調色を結語において表出した。若い女を誘拐しその
肉体を玩具のごとく扱い殺してしまうアトミズムの極限において類的存在を破壊した男
が、黒色の闇につけていたのは夜間を透視することができる機器であった。仮想現実ゲ
ームによいしれている男の眼球をおおうマスクを思い出せばよい。
91年「クリスマス・ツリー」と形容されたバクダット空爆、10万人の無抵抗なイ
ラク兵士を砂に埋め殺した陸上戦に使用された夜間透視機器に写しだされた映像はすべ
て黒色に漂う青緑色の光景だったのである。こうして美術批評を特権的に私的所有する
日本の大学教授どもは「あれに優る美があるだろうか!いまや思想やアートは無力にな
った!」と洗脳社会と欠落現実感に、言説の群れとして総敗北・総屈服し、世界新秩序
の世界基調色に迎合していく。しかし彼らは危険信号の赤の存在構造が消却したことは
同時に、その対極に存在していた安心・安全の信号が、人間とハイ・テクノロジー機器
の交差点で不均衡に不気味に揺らいでいる構造を隠蔽している。
地球の自然生形態にこれまで青緑色はそのシンボルとして帰還することはできたが、
これまで人間・社会の病理を治療し看護してくれた地球の母は対話能力を喪失し終焉し
ているのだ。故に90年代の基調色はシミューレーションが渦巻く「底なし沼」なので
ある。やがて青緑の川は皮膚が破壊され赤土がふきだし泥が流れる赤い川へと変貌する
であろう。そして地球は美しい青緑の星から赤茶色の惑星として変換されていくのであ
る。日本のエリートたちはハイ・テクノロジーの新世代に活路を求めているが、それも
やがてゆきずまるだろう。真理は人間に存在するからである。アンドロイドは過去空間
の記憶を持たず、関係の変貌に傷つくことも無く絶望することは無いであろうが、人間
は己の固有の歴史を背負った動物である。人間の時間はデジタル・数字が打ち出す時計
ではないのだ。他者空間との関係性に成立するやっかいな空間精神動物なのだ。
永田町に本部がある世界最大の暴力団「劇団自由民主」の政治支配と上部構造の統制
管理を、ずぶずぶと変革できぬままできた、だらしがなくなさけないわれわれの日本社
会はいまだ親分子分といった卑屈な制度的社会だ。くだらない卑屈な構造が空間にベッ
タリと貼り付いているのだ。テキストがそのままデイレクトに他者関係性として理解・
解釈される社会ではない。表出されたテキストをそのまま理解し・解釈すればわれわれ
は愚かな人間として、世界最大の暴力団「劇団自由民主」とそれを支える世界最大の官
僚機構によってだまされてしまうであろう。こうした社会は「善意の道は地獄へと敷き
詰められている」格言道理である。こうしてテキストは疑心暗鬼にさらされ、サブ・テ
キストを解釈する能力のみが発達するわけである。
マス・メディアによる推理小説と「2時間テレビドラマ/OO殺人事件」が圧倒的過
剰に供給され需給されてきた80年代の物語構造には理由がある。この社会では日本語
を話す同一国民であっても、関係性としての他人は推理しシミュレーションしない限り
落とし穴に蹴落とされてしまう。日本国民たる社会人はマス・メディアによって自己の
自由時間はこの推理とシミュレーションの自己訓練に当てぬ限り、日本社会の空間で生
き延びることはできないのだ。もちろんサブ・テキストとは演劇用語である。テキスト
に真理があるのではなくサブ・テキストに真理があるとする空間構造は、親も敵として
蹴落としてしまう下剋上の空間構造だ。敗戦後、戦国時代のNHK大河テレビ・ドラマ
が日曜日の8時になると、男どもが見なくてはいられない競争社会のシミューレション
訓練構造は、いまだ日本社会の表層空間が親分・子分の系列部族社会であるからである。
個人の固有表出と思考形態を彼が徹底して充満させ、究極まで走ろうとすれば、自己
と他者に対し冷徹な人間でない限り、彼は系列部族社会から自己破産を宣告され自殺す
るか廃人へと追いつめられるであろう。こうして天皇制は疑心暗鬼の国民がすべて腹芸
をする腹黒いサブ・テキストの演劇社会表層空間において、日本人とゆう固有名詞の血
管となる。日本人の一人一人は己の遺伝子にある青緑色の渦巻く「沼」において、天皇
制が消滅すれば固有の物語と幻想・観念を持った固有の人間は独立宣言し、個人として
人間宣言することを予感している。
演劇人は演劇とは麻薬であることを良く自覚している。サブ・テキストに真理がある
腹黒い腹芸の日本社会とは生きた仮想現実の生成なのである。故に日本人の脳と身体言
語は常に推理とシミュレーションの麻薬にどっぷりとつかっており、このドラック体験
の快楽はただ天皇制によって自己存在を消却させてくれるからである。こうして系列部
族の発情した群れのエネルギーを全身で受け止めてしまったロック音楽人は、もはやド
ラックに頼るしか無い。しかしそれは天皇制とマス・メディアに解体され洗脳された老
人が、継ぎから継ぎえと病院を替え薬に頼るクスリずけの晩年の構造でしかない。演劇
人がドラックをやらない理由は、はっきりしている。演劇とは生きた仮想現実としての
麻薬なのだ。
固有空間を問題にする演劇世界は同時に大状況の現在たる表層皮膚を、新鮮なナイフ
の動物的本能がひきはがして挑発しているのだ。制度化され画一化された都市構造を爆
発せんと身構えている若く可能性のエネルギーをもち造形力のある新しい劇詩人は、い
かなる時代であれ存在しているのである。若い世代の演劇をこじんまりとした固有の物
語にわだかまる自分さがしの演劇であるとかたずけるマス・メディア洗脳言語はいかな
る構造にあるのか?
それは人間をめぐる現代世界の動的中心が大きく転換し変貌したとゆうあたりまえの
現実をいまだ身体的言語が認めていないのである。人間世界の転換と変貌を己の身体言
語が認めるということは、己のこれまでの観念が一度崩壊をとげねばならない。人間は
こうした外傷としての受苦的存在の経験の格闘をくぐりねけることによって、人間世界
の転換と変貌を身体言語として認めるのである。ところが日本のマス・メディア洗脳言
語はいまだ言説・物語構造をエリート部族スターリン体制として、上部構造から一方的
に供給過剰している。彼らはこれまでの見せかけの物語構造を保守しきっているのだ。
いくら彼らの物語が「サセペンス殺人事件」「バブル・トレンド物語」から複合不況
経済に規定された神経がズタズタになった「バブル崩壊人間破産サスペンス物語」へと
路線転換してもそれはどこまでも見せ掛けの物語構造にある。彼らのバブルの泡が破裂
したことによる現在の「スキャンダル・ナーバス物語」は永田町の世界最大の暴力団「
劇団自由民主」の染色日本銀行券心理と下半身うずく、きんたまであり、帝都東京の崩
壊に脅えるナーバスだ。もはやそこに人間の知恵は消滅している。
新しい身体知覚・新しい物語知覚・新しい交換知覚と本格的に対決すれば彼らの論理
は破産し、存在は崩壊をとげてしまうであろう。故に若い世代の現代演劇は永遠に彼ら
の物語構造によって隠蔽される。「夢の遊眠社」「第三舞台」に続く観客動員力を持っ
た劇団のみが新世代の新感覚派として現象化され、スターリン体制の部族物語構造の内
部に回収されるのである。日本の現代演劇が現代文学と同様の位置を占めることは彼ら
スターリン資本主義体制とエリート部族が許さねであろう。なぜなら劇詩人と役者は常
に、彼らの制度的画一的物語構造を覆してやると身構えており、彼らを挑発しているか
らである。
1992,12,05